第三話 接触
-not wished contact-

1.

 大学に初めて一歩入ったとき、わたしは唖然とした。
 大学とはこんなに広いところなのだろうか。小高い丘の上に大きく翼を広げる、一際目立つ校舎、 その前には校舎に比べれば低いが、それでも数メートルくらいの高さまで水しぶきをあげる美しい噴水があった。 そこからわたし達のいる南門まで舗装されたなだらかな坂が通り、道の両脇には無数の桜の木が植えられている。 道の外にはまたいくつも小さな校舎があり、全部数える前に圭一さんに「22戸だよ」と言われた。 校舎と校舎の間にはサッカーコートや陸上競技場、果てにはゴルフ場とおぼしき芝生まであった。 聞いたところでは、中には食堂や書店、自転車の修理屋や簡易医療施設まで整い、まるで小さな街だ。
 そして、次に驚かされたのは人の数である。見渡すと、わたしと同じ新入生は正装しているのですぐに分かる。 その日、一般生徒は休みだったはずなので、ここにいるのは全て新入生なはずだ。 それにしても、こんなに一度に入学したのかと思うほどの人である。 圭一さんと一緒に立っていても、まったく目立たなかった。
「じゃあ、俺は工学科の入学式に行くから。あとは一人でいけるか?」
「うん。」
圭一さんは西へ、わたしは北へ向かって歩き出した。 人の波にのまれながら、きょろきょろとあたりを見渡す。 こんなところで大学生活を送れるのだろうかと不安にもなったが、 それでも新たな勉学の場、生活の場に、胸を躍らせた。

 目的の校舎へはなんとかたどり着けた。所々に立て看板が立ててあり、 学科ごとにどこへ行けばいいのか示してくれていたので、難なく到着できた。 この看板がなかったら、今頃みんな迷子になっているに違いない。
 教室へ入ると、中はこれまた広かった。300人を越える新入生を一度に格納するのだから、当然と言えば当然だ。 教室は、前には白いスクリーンが広げてあり、プロジェクタでスライドを映すらしかった。 席の方はといえば、向かってわずかに放射状になっており、後ろへ行くほど床が高くなっていた。 まだ時間が早いとはいえ、席は半分以上埋まっていた。 わたしは一番後ろの席に座って、しばらくあたりを眺めていた。 文芸学科ということもあって女生徒が多く、7〜8割を占めていた。 中には輪になって話に夢中になる学生もいたが、この場にいるほとんどの人が、 この空間にひとりぼっちで存在しているはずだ。 高校までの友人も、大学、さらに学部、学科まで一緒というケースはあまりないだろう。 みんな一人で、この場に来ているはずだった。 中には進んで声をかけて、新たな出会いの糸口を見出そうとしている人もいたが、 昔から人付き合いの苦手なわたしはそんな気は起きなかった。 観察するのも飽きてきたので、持ってきていた小説を出して読むことにした。
 背中に誰かの気配を感じた。突き刺さるような鋭い視線だ。振り返ると、見知らぬ少女がわたしを見ていた。 目が合うとまた心を貫かれるかのような、身震いするほどの感覚に襲われた。 わたしはその場に凍りついてしまったが、少女の一声で我に返った。
「エンデ。」
一瞬何を言っているのか分からなかったが、 小さな指でわたしの持っていた分厚い小説を指し示して、ようやく理解した。
「終わりなき物語、大好き。」
「へぇ、ファンタジーもの、好きなんだ。」
「うん。」
さっきの視線とは裏腹に、ささやかではあるが少女はにっこりとした。 その笑顔で、一人堅くなっていたわたしの緊張も、あっという間に溶けてしまった。 少女はそのままわたしの横へ座った。
「わたしも好きなんだ。もう4回目くらいかな。」
「何回読んでも面白い。」
座るとわたしより結構頭が低く、大学生というよりは中学生くらいにも見える容姿だった。 触ればさらさらと肌触りの良さそうなセミロングの髪を、左右で2ヶ所束ねている。 あまり口数も多い方ではなさそうで、どこか気が合いそうな気がする子だった。 わたしは思い切って、切り出してみた。
「わたし、水奈月遥歩。あなたは?」
無口な少女は一語で応えた。
「柳本凛。」

 春の風に乗って桜の花びらが宙を舞っていた。なだらかな坂も桜の花びらで覆い尽くされ、 歩くたびにふわふわとした感触が伝わる。わたしは圭一さんと合流するため、南に向かう。 凛ちゃんはそのまま帰るというので、校舎の入り口で別れることとなった。
「それじゃあ、また今度ね。」
「うん。」
今日は凛ちゃんがいてくれて助かった。大人数で煩わしいのは嫌いだが、一人だけだとやはり心細かったかも知れない。 わたしが手を振ると、凛ちゃんも小さく手を振った。その仕草といい容貌と言い、まるで人形みたいで可愛らしかった。 しばらく歩くと、先ほど感じた、そう、凛ちゃんに初めてあった時と同じ、あの凍りつくような視線を感じた。 あわててわたしは振り向いた。距離があったので表情は伺えなかったが、凛ちゃんは別れた場所に立ったままで、 こちらを見ていた。気のせいだ、きっとと、自分に言い聞かせて、もう一度手を振った。凛ちゃんも応えてくれた。 わたしはまた踵を返して、南門へ歩き出した。
「水奈月遥歩、あなたがどれだけ知っているのかは分からないけど、 証拠を掴んで正体を暴くのも、時間の問題だからね。」
冷たく鋭いまなざしでわたしを眺めながら、凛ちゃんはぽつりと言った。 だが、この距離、この雑踏の中で、その声がわたしに届くことはなかった。



2.

 午前中はずっとベッドの上でだらだらとしていたが、昼を過ぎるとお腹も空いてきたので、 やむなく起きることにした。ひとまず自分の部屋のカーテンを開ける。 外はずっしりと重そうな、灰色の雲に覆われていた。ここのところ秋晴れが続いていたが、 今日に限って天気がぐずついているみたいだ。 わたしの気持ちを一層滅入らせてくれる、タイミングのよい天候だ。
 とりあえず洗面所で歯を磨いて、居間へ向かった。 カーテンが引かれており、わずかな日中の光だけが注ぐ、暗い空間だった。 ここも一応カーテンを開ける。ベランダには圭一さんの観葉植物がわずかな陽の光を求めて 互いに葉の広げ合いをしているかのようだった。わたしは踵を返してキッチンへと向かう。 目的はもちろん食べ物だ。だが、冷蔵庫を開けてもすぐに食べられそうなものはなく、 インスタント食品の買い置きも、こういう日に限って切れていた。 「はぁ」とため息をつく。脱力感が一層気をだるくさせた。 とは言っても空腹の訴えにはかなわず、気を奮い立たせて買い物に行くことにした。 適当な服に着替え、乱れた髪を繕って、最低限の化粧だけ済ませ、わたしは午後の街へと降り立った。

 駅とは逆の方向へ向かう。こちらに来るのはなじみの古本屋、圭一さんのよく行く花屋、 そして今から向かうコンビニへ行く時くらいしか歩くことはない。 外へ出てみると先ほどよりも黒い雲に覆われて、いつ降り出してもおかしくない天気だった。 傘をもってくれば良かったなと思ったが、今更取りに戻るのも面倒なので、仕方なくそのまま歩いた。 コンビニまでは3分ほどの距離だ。歩いてこれくらいの距離なのだから、いざという時に便利である。 ところで、ゆかりちゃんはこのコンビニでアルバイトをしている。家がすぐ近くなので、自転車で通っているそうだ。 わたしと圭一さんで買い物に来ると、なぜかいつもいる。 だが、今日は平日の昼時なので、さすがにいないだろうと踏んでいた。 それに、今日みたいな気分の日には、ゆかりちゃんですら会いたくはなかった。
 あたりに似たコンビニがあるわけでもないのに、ここは大体いつも空いている。 今日も駐車場には車が1台停まっているだけだった。
「いらっしゃいま〜せ〜。」
ドアを開けると、相変わらずふんわりとした、気の抜けたような可愛らしい声が聞こえてきた。
「こんにちは、モモちゃん。」
「だから〜、オーナーって呼んでくださいよう〜。」
そういってがっくりとうなだれてしまう姿もまた、モモちゃんの魅力の一つだった。 百瀬もも子、通称モモちゃんは、若くしてコンビニのオーナーを務めている。 大神災の際に前オーナーが亡くなってしまったらしく、 一番実力のあったモモちゃんがその後を継いだということだった。 しかし、このモモちゃんは変わり者で、他の従業員は皆制服を着ているのに、 モモちゃんだけはその上にウサギのマークがついたエプロンをしている。 その姿が怖いくらい似合っていて、他の客からも人気があるらしい。 なお加えて独特の雰囲気、しゃべり方、そして凛ちゃんと渡り合えるくらいの背の低さで、 色々と話のネタになるような人だった。オーナーと呼ばれなくても無理はない。 わたしはゆかりちゃんがきっかけでモモちゃんと知り合った。 向こうの方が10近くも上だが、同年齢くらいで接している。
「随分久しぶりですね〜。今日は大学はお休みですか〜?」
「うん、まあ。」
手に持っていた機械をカウンターにおいて、両手を前で組み、にっこりと微笑んだ。世間話の体勢だ。
「そんなこと言って、本当はおさぼりさんじゃないんですか〜?」
「それをいうなら、モモちゃんだってそうでしょ。」
「お客さんの相手をするのも立派な仕事ですよ〜。」
都合のいいこと言ってるな、と苦笑する。 その時、買い物かごを持ったおばさんが、カウンターの前へ歩み出ようとしていた。
「モモちゃん、お客さんだよ。」
「はいはい、麻衣田さ〜ん、お客様ですよ〜。」
「麻衣田?」わたしが訝っていると、カウンターの奥からゆかりちゃんが出てきて、レジを打ち始めた。 てっきりいないものと思っていたが、やはりわたしが来るときには必ずいるのだと思い知った。
「まいど〜。」と声を上げ、客を見送ると、 どうやらモモちゃんの横に立つわたしに気がついたらしかった。
「あれ、遥歩じゃない。」
「お仕事ご苦労様。」
ゆかりちゃんもカウンターから出てきて、すっかり雑談ムードだ。まったく、この店ときたら。
「遥歩、今日はさぼり?」
「まあそんなとこ。」
「珍しいじゃない。それじゃあ、今から働いていきなよ。今日夜まで誰もいなくて。」
「そんな、何無茶いってるの。」
「それはいいアイディアです〜。朝から二人はしんどいです〜。」
「こらこら、モモちゃんまで何言ってるの。」
この二人といると自然と和やかな気分になれる。来る前はゆかりちゃんとも顔を合わせたくなかったが、 実際来てみれば先ほどまでよりも心が晴れてきた気がする。だが、それに乗じて空腹感も一層高まってきた。
「お腹減ってるんだ。モモちゃん、何か頂戴よ。」
「それはダメです〜。店が成り立たないですから。」
「じゃあ、買うから少しまけてよ。」
「では〜、1万円以上買ってくれたら1000円割引しときます〜。」
「そんなに買えないって。」
ゆかりちゃんと一緒になって笑い出す。どうやらモモちゃんは、人をからかうのは得意なようだ。 しかし、次の瞬間、いつものモモちゃんからは想像も出来ないような、きりっとした目つきで店内へ顔を向けた。 その先には大学生とおぼしき男性がポケットになにやら手を入れている。 モモちゃんに睨まれた男性は体をびくっと震え上がらせ、すぐにポケットから菓子を取り出した。 どうやら万引き未遂だったようである。それを見届けたモモちゃんは、再びわたし達に顔を向けた。 その顔にはいつものふんわりとした笑顔が浮かんでいた。これにはわたしだけでなく、ゆかりちゃんも驚いていた。
「モモちゃん、結構すごいんだね」とゆかりちゃん。
「はい〜、ああいう人は気配で分かるのです〜。」
そそくさと店を出る先ほどの男性にも、「またどうぞ〜」とねぎらいの言葉を忘れない。 この人には素質があるのかも知れないと、その一瞬だけでもわたしは思った。 店内にはわたし達3人だけが残された。それから次の客がくるまでの10分間、 二人は結局何もせず、ただ雑談しているだけだった。本当に、この店ときたら。

 弁当と飲み物を買って帰路についていると、いよいよぽつぽつと雨が降り出した。 ついていないと思いながら、気持ち早足でマンションを目指す。 とても冷たい雨だった。なぜだか、わたしは妙な胸騒ぎを感じていた。
 角を曲がり、マンションが見えた。だがそれと同時に、出かけ際にはなかった黒い車が路肩に停めてあった。 それに寄りかかって、サングラスをかけた長身の男が、じっとマンションを見つめていた。 金髪で、上下とも黒いスーツを纏って、煙草をふかしている。 その目線は、わたし達の部屋を見ているような気もした。 なんとなく嫌な感じになり、少し右に寄りながら、足下を見て歩いていた。 車の横を通り過ぎようとすると、長身の男もわたしの足音に気がついたようだった。 わたしはまた歩く速度を速めて、車を横切った。
「なかなか良さそうな住まいじゃないか。」
低い声が耳の中に響いた。びくりとして立ち止まり、男の方を振り向いた。 男は口元に笑みを浮かべながら、わたしの方を見ていた。 そのとき改めて顔を見ると、どうやら日本人ではないようだ。 恐らくアメリカ人だろうと思ったが、サングラスの上からではさだかではなかった。 また、後ろからでは分からなかったが、助手席に一人、また金髪の髪の長い女性も乗っていた。 その女性もまたサングラスをかけ、ノートパソコンを膝にのせてキーを叩いていた。 わたしはその時、先ほどの言葉はわたしではなく、同伴の女性にかけたものだと思った。 だがそうではなかった。男は続けて、わたしに話しかけてきた。
「河上圭一は大層優秀な博士らしいじゃないか。水奈月遥歩。」
わたしは目を丸くして訊いた。
「どうしてわたしのことを……?」
だが返事の代わりに、男は胸元へ手を入れ、 次の瞬間には銀色に光る大型の拳銃が真っ直ぐにわたしの頭部をねらっていた。 わたしは唖然として、声もでなかった。今何が起こっているのか、一瞬理解することができなかった。男は続けた。
「もとは君は無関係だが、場合によってはいい取引材料になる。」
拳銃が本物かどうかは分からなかったが、自分の身に危険が迫っていることは直感的に感じ取れた。 心のどこかで助けを呼んでいる。圭一さん、助けて……。
 わたしたちのやりとりに気がついた女性は、窓を開けて言った。
「何をやっているの、アイバー。」
「気にするな。ちょっとしたリハーサルだ。」
アイバーと呼ばれた男は言って、拳銃を再び胸にしまいこんだ。 ついで持っていた煙草を靴でもみ消してから、車に乗り込んだ。 窓越しにわたしに向けていった。
「今日はただの挨拶代わりだ。これから君の親愛なる博士のもとへも出向かなければならないのでね。」
エンジンを掛けた途端に轟音が鳴り響いた。大地を揺るがすほどの脅威を、わたしは感じた。 その後、狭い道の中で1回切り返してから、車は猛スピードで去っていった。 しとしとと降り続ける雨の中、石のように固まったわたしだけがその場に残されたが、 すぐに我に返った。というのも、あの男、アイバーが放った最後の一言だけが、強く頭に残っていたからだ。
『これから君の親愛なる博士のもとへも出向かなければならないのでね』
「圭一さん……。」
未だかつて味わったことのない、深く、暗く、そして恐ろしい予感が脳裏を貫いた。 圭一さんが危ない。圭一さんになにかあったら……、圭一さんが死んだら……。
 次の瞬間、すぐに駅へ向かって走り出したが、右手に持っていた弁当の存在に気づき、 あわててマンションへ引き返した。 自宅のポストへ乱暴に詰め込んでから、何も考えず、ただただ無心で駅へ走った。 行く手を阻むかのように雨足は強くなり、わたしを顔を容赦なくたたきつけた。

 凛ちゃんは自分の体ほどもある大きな傘を閉じて、自宅のドアを開けた。 自分の傘をたたんで、傘立てにさす。傘立てにはもう一本、青い傘がさしてあった。 凛ちゃんのお母さんのものだ。 凛ちゃんのお父さんは警察の、それもかなり上級職で、現在はアメリカへ出張に行っていると聞いている。 姉妹もいないので、家には凛ちゃんとお母さんと、二人で住んでいる。 家の大きさは普通だが、お父さんを抜いて2人で住むにしては少々広い気がする。 わたしも何度か遊びに行ったが、見たこともないような色々なもの、工芸品、絵画などいたる部屋に飾ってあり、 わたしのような人間が入ることがあつかましいように感じたくらいだった。
 凛ちゃんは2階の自室へ上がるため、階段の下まで歩いてくると、お母さんが居間からひょっこり顔を出した。
「あら、おかえり。」
「ただいま。」
凛ちゃんは家でも外出時でも変わらず無口なほうだ。お母さんはと言えば、 片手にビスケットを持って昼のドラマを見ている真っ最中だった。 一人娘はしっかりしているので、ほとんど手が掛からない、と遊びに行ったときに言っていた。 お母さんは凛ちゃんのことをとてもかわいがっており、凛ちゃんもお母さんが大好きだと言っていた。 それ以上に好きな人がいるといってはいたが、そこから先は訊かなかった。
「ねえ、用がないなら一緒にドラマでも見ましょ。」
「うん。すぐ降りてくる。」
凛ちゃんはぽてぽてと階段を上っていった。
 自室のドアを閉め、ノートパソコンのスイッチを入れた。起動するまでの間に上着を脱ぎ、 洗面台へ手を洗いにいった。
 パソコンですることといっても、メールをチェックするだけだった。 メールソフトを立ち上げる。新着メールが1通届いていた。
「お父さんからだ。」
お父さんからのメールは暗号化してある。パスワードは凛ちゃんとお父さんしか知らない。 専用のプログラムを使って、いつものパスワードで暗号を解いたが、それでも読める文字は出てこなかった。
「二重に暗号が……。」
暗号を二重にかけてメールを送ることなんて滅多にない。とても重要な内容の時だけ使うので、 時々2つめのパスワードを忘れそうになることだってある。 凛ちゃんはもう一度暗号を解いた。今度は正しく読める文字が出てきた。 しばらく凛ちゃんは液晶を眺めていた。窓に打ち付ける雨が段々強くなってきた気がした。
「凛、早くー。」
お母さんの待ち焦がれる声が階段の下から響いてきて、凛ちゃんは我に返った。 複雑な心境でパソコンの電源を落とした。
「遥歩……。」
真っ黒になった画面に映る自分に向かって、ぽつりと呟いた。
「どんなことがあっても、必ず守るから。」
凛ちゃんはバッグの中を確かめた。そこには普通の女子大生が持つはずのないものがいくらか入っている。 存在を確かに確認すると、凛ちゃんは自室を引き上げ、居間へ向かって階段を下り始めた。

3.

 わたしは駅から大学へ電話を掛けてみた。 内線で圭一さんを呼び出そうとしても、講義中だからということで却下された。 不安と恐怖で声を荒げながら必死に頼み込んだが、結局無駄だった。 仕方なくわたしは自分の足で大学へ向かうことにする。改札口から出てくる人々にもまれながら定期を通す。 急いで階段を駆け下りたが、電車は時間通りにしか来ない。 今度は焦りも加わって、泣き出しそうになるのを必死にこらえた。鼓動が早くなるのを、嫌でも感じ取ってしまう。
 電車の中でも動悸が鎮まることはなく、むしろさらに早くなっていく。 ずっと嫌な感じが体にまとわりついて離れない。心の中で何度も名を呟く。圭一さん、圭一さん、圭一さん……。
 電車を降りると人の間を走り抜ける。駅のホームを出ると、まるで行く手を阻む滝のような雨がわたしを待っていた。 だが躊躇う時間など一瞬たりともなかった。わたしは雨の中、大学へ向かって走り出した。 時々行き交う人がわたしのことを奇妙な目で見ているようにも見えたが、 そんな視線をいちいち気にしている余裕はなかった。 体力のないわたしは途中何度も立ち止まり、膝に手をあてて体全体でぜいぜい息をしたが、 少し休むとまたすぐに走り出した。大学はもう目の前だ。
 敷地内へ入り、すぐに研究室のある南へ向かった。講義の時間は過ぎ、つく頃は丁度休み時間のはずだ。 もし無事なら、圭一さんは研究室にいるかもしれない。 目の前が霞んでいる。疲れてか、雨のせいか、それともいつの間にか泣いていたのか、それすら分からなかった。 校舎が見えてきた。
 「圭一さん!」
わたしは研究室のドアを乱暴に開いた。中には研究生らしき生徒が数人でテーブルを囲い、 お菓子をついばみながら雑談をしていた。 だが、わたしの登場で室内は一気に凍りついた。 全身ずぶぬれな上、肩で息をしている見知らぬ女がものすごい形相で飛び込んでくれば、 誰だって固まってしまうだろう。
「あの、けいい……河上先生は!?」
わたしはなんとか冷静さを保ちながら、誰ともなしに訊ねた。
「きょ、教授なら準備室にいるけど……。」
学生の中の一人がドアを指さしながらおそるおそる応えた。 わたしは立っているのも辛いくらいだったが、残っていた力全てを使ってドアまでかけだし、勢いよく開けた。 だが、圭一さんが同じタイミングで中からドアを引いたため、わたしは勢い余ってつんのめりそうになり、 圭一さんに支えられた。
「あ、遥歩、どうしたんだ?」
わたしの突然の登場に圭一さんも驚いていた。わたしといえば、一瞬意識が遠のきそうになったが、 改めて圭一さんに支えられていることに気づき、圭一さんの顔を見ると、 今までの緊張が音を立ててはじけとび、涙があふれ出した。
「うわあああん、圭一さん、よかったあ!!」
わたしがとんでもない音量で泣き崩れたので、圭一さんも一瞬あわてたが、 すぐに学生の一人に目配せして、研究室のドアを閉めさせた。 すでに何事かと野次馬が集まっていたが、圭一さんの研究生達が数人で場を制していてくれた。

 ただごとではないと感じた圭一さんは次の講義を休講にして、わたしについていてくれた。 わたしが泣きやむまで、ずっと頭をなでていてくれたのが、とても気持ちよかった。 研究生の一人からタオルを借りて頭だけは拭いたが、体の方はまだびしょびしょで、 肌にはりついて気持ち悪かった。
 頃合いを見計らって、圭一さんはわたしを連れて帰ることにした。 というのも、下着までびしょ濡れのわたしをこのままにしておいたら、 確実に風邪を引くであろうという考えからだった。 車につくまでは、圭一さんはわたしに何があったのか、何も訊ねてはこなかった。 エンジンをかけ、暖房を入れた。圭一さんにとってはまだ暑い気候だろうが、 わたしのことを思ってのことだろう。 雨は随分小降りになっていた。圭一さんはゆっくりアクセルを踏み、駐車場から抜け出した。
 いつもの帰り道、ずっと黙っていたが、中程まで来てようやく圭一さんは口を開いた。
「この雨の中、傘もささずに来るんだもんな。まったく、呆れるよ。」
わたしは黙っていた。前にもこういうことがあった。圭一さんは気を遣ってくれているのに、 わたしはそれに応えることが出来ない。 あの時は感じなかったが、今はそんな自分がひどく情けなく思えてくる。 「早くしないと風邪引くからな。もう少しとばすか。」
そういって圭一さんはアクセルを強く踏み込んだ。前に車がいなかったので、どんどん加速する。 いつもならはしゃぎ出すわたしだが、今日はそんな気は起きるはずなかった。
 マンションの駐車場に車を停め、二人で部屋へ向かった。 途中圭一さんがポストを調べ、ぶっきらぼうに詰め込まれている弁当と飲み物を訝った。 あわててわたしが、それは今日の昼食にしようとして買ったものだと説明すると、 圭一さんはからからと笑い出した。昼食がポストの中に入っているのがおかしかったらしい。 言われて気づいたが、わたしは朝から何も食べていなかったのだ。だが、今は食欲などなかった。
 鍵を開けて部屋に入る。中はどんよりと薄暗かった。 圭一さんは廊下の明かりを点け、「早く着替えておいで」と促した。
「あと、着替えたら居間まで来るんだ。いいな。」
わたしは小さく頷いて部屋へ入った。ベッドの上には先ほど脱ぎ捨てたパジャマがそのままの形で残っていた。 とりあえず服を全て脱ぎ、バスタオルで体をふいた。立っているのも精一杯なくらい疲れいたので、 このまままたベッドに倒れ込みたかったが、そうもいかない。 なるべく急いで着替えようとしたが、なかなか体がいうことをきかず、随分手間取ってしまった。 体が非常に重い。額に手を当ててみると、どうやら熱があるようだった。 当然といえば当然だ。誰にも文句は言えないので、仕方なく自分の心に叱責しながら、最後のボタンを留めた。
 居間に入ると、圭一さんはマグカップでココアをすすりながら、宙を見据えていた。 マグカップはもう一つ用意されていた。圭一さん以外のものであるとすれば、 この家では残りはわたしのものである。マグカップの前に座ったが、 圭一さんはまだ焦点が合わないまなざしで、遠い世界を見ているようだった。 わたしはココアを一口すすった。何も食べたくはなかったが、ひどく喉が渇いていた。
「寒くないか?」
圭一さんはわたしを見ていった。わたしが「風邪引いちゃったみたい」と応えると、 「やっぱりな」と言ってソファに埋(うず)もれた。その口調は怒ったり呆れたりしたものではなく、 至極当然だというような感じだった。わたしもカップをテーブルに置いた。
「やっぱり、今朝のことか。」
少し間をおいてから、圭一さんはいった。わたしが泣きながら現れたのは、 今朝の一件からきてるのだと思っているようだ。 なのでわたしが否定すると、圭一さんはさも意外そうに、「じゃあ、どうしたんだ?」と訊いてきた。
「コンビニでお弁当買って、帰り道でね、そう、ちょうどその通り。そこに知らない男の人がいて、 じっとこの部屋を見てる気がしたの。わたしは怖かったから早く通り抜けようと思ったんだけど、 突然声を掛けられて。」
そこでわたしは言葉を切った。圭一さんは促すようなことはせず、わたしが先を話し出すのをじっと待っていた。
「その人、外人だったみたいだけど、日本語が出来て。なぜかわたしのことを知ってたの。 わたしが振り向いたら、突然胸元から拳銃を取り出して。」
「拳銃?」
さすがに圭一さんも驚いたようだった。
「それで?」
「本物かどうかは分からないけどね。でも、わたしのことを狙って。そうしたら、連れの女の人が、 あ、車が停めてあって、その助手席に乗ってたんだけど、その人が止めに入ってくれて。 結局何もされなかったんだけど。」
また言葉を切った。アイバーといったあの男の顔に浮かぶ、冷たい笑みが脳裏に蘇った。 こうして圭一さんは無事でいる。何もなかったのだ。だが、まだ心のどこかにひっかかる物がある。 圭一さんも神妙な顔つきでわたしを見ている。わたしは口を開いた。
「その男が、車に乗って行こうとする前に、 圭一さんにも挨拶しなきゃならない、みたいなことを言ってたの。 だから、てっきり圭一さんに何かするんじゃないかって思って、急に怖くなって……。」
震えが止まらなかった。必死に泣かないように我慢したが、すればするほど心が締め付けられ、 ついに涙がこぼれだした。 「もし、圭一さんに何かあったらと思ったら、気が気じゃなくなって……。」
嗚咽混じりにいうと、圭一さんはわたしの隣に来て、そっとわたしを抱きしめてくれた。 とても暖かく、とても優しい感覚。あの日以来失われた時。 もう二度と抱きしめられることなんてないだろうと思っていた。 諦めていたが、ずっと求め続けてきたことだった。 圭一さんの胸の中で、声を上げて泣いた。そんなわたしを、圭一さんは優しくなでてくれた。 何度も何度も、なでてくれた。
「ありがとう。うれしいよ、そこまで俺のことを心配してくれて。」
圭一さんの華奢な体に抱かれる中で、わたしは思った。 この人は、たとえどんなところにいても、わたしをきっと守ってくれる。 それがたとえ自分の身を犠牲にしてでも。 今は心の中だけだが、いつか自分の口から直に、圭一さんに言いたかった。 「ずっと一緒にいてください」と。

第二話

第四話